引き寄せて、抱きしめて




乱立するビルを縫うようにして、細い朝日がクラウドを照らす。
隣に立つアパルトメントが窓の間近まで迫っている。
住民の生活に汚された壁は、カーテンを開ける度にクラウドをうんざりさせる。

スラム街の住民には空を臨む権利がなかった。
ビルの合間に、青空の断片が見えるだけだった。
新羅カンパニーの巨大なビルが空を覆っている。
そして、まるで新羅に媚びているかのように、会社ビルの膝元にスラム街は広がっていた。

貧しい人々が多すぎるせいで、少しでも土地があれば貧しいアパルトメントを建てるため、太陽の光が届くはずもない。
不健全で頽廃的な空気が醸成され、子供は発育不全であり、大人は常に苛立っている。
ここには希望はなく、ただ破滅のみが存在していた。

クラウドは煙草を吸おうと窓を開けた。
食事のにおい、下水のにおい、石鹸のにおい、生活にまつわる全てのにおいが交じり合ってクラウドの部屋に入り込んできた。
隣のアパルトメントに住む住民も窓を開け、洗濯物を干している。
見ている限り、洗濯物は、常に生乾きのようだった。

煙草を再び吸い始めたのは、つい最近だった。
神々を柱とする次元に召還されていたときは、煙草を吸うという発想すらなかった。
スラム街に住んでいると、煙草を吸って1日が終わるということすらあるというのに。

あの世界は幻想ではなかったか、とクラウドは度々自問する。
葬ったはずの宿敵は、次元を超えて再び目の前に現れた。
想像を超えた世界のもとに生まれた人々は、クラウドと共に戦った。
あの時間を信じる方が難しい、とクラウドは思う。

一緒に戦った人間のうち、8割方は騒がしい連中だった。
クラウドが自分に似てるな、と思った男は、魔女を倒したそうである。
何故か尻尾が生えている少年もいたし、銀髪が印象的だった青年はどこかの国の国王を名乗った。

もういちど会いたいと思う少女もいた。
彼女はティナという名前だった。
幼馴染に似ている名だと思い、けれど容姿は全然似ていないと思った。
自らの持つ力に恐れおののき、常に何かに怯えている風の彼女は、クラウドが初めて「守りたい」と思った存在だった。
それは誰から与えられたわけではなく、自発的な思いだった。

彼らは、本当にクラウドが生きている次元のどこかに存在しているのだろうか。
それを証明する術はどこにもないし、彼らと過ごした日々の物理的な証拠もないのだ。

けれども、もういちど会いたい。
ティナに。

まずティナには感謝したかった。
一緒にいた頃は、ひたすらティナがクラウドに感謝していたけれど、本当に「ありがとう」と言うべきなのは、自分だった。
それは、自分が口ベタという性格に甘えたせいで叶えられなかった。
ティナは控えめに笑い、影でクラウドのことを支えていた。

ティナに伝えたい言葉、共有したい思い。
全てはあの頃に叶えられそうで叶えらなかった。
ティナに会えなくなった今なら、きっと叶えられるのに。
けれども彼女は、住所も、電話番号も、メールアドレスも、知ったところで会えない女だった。

クラウドは自嘲する。
失ってから気付くとは、こういうことなのだ。
彼女を初めて抱いたときの感触はまだ手に残っていた。
華奢な肩、冷たい肌、柔らかい髪。
私は幻獣とのハーフなの、という彼女の言葉を、クラウドは殆ど理解できなかったが、
確かに人間離れをした容姿だった。

「クラウド」
ドアが開き、自分を呼ぶ声がした。
幼馴染のティファだった。
女の声がする度に、ティナではないかと淡い期待を無意識に持っていたが、それは裏切られ続けていた。
「そんなガッカリした顔しないでよ、失礼な奴。」
ティファは笑い、朝ごはんよ、と言いながら、素っ気無いテーブルにテーブルクロスを敷いた。
赤と白のギンガムチェックが部屋を明るくした。
クラウドは席につき、紅茶を飲み干してサンドウィッチに手を伸ばした。
バーテンダーをやっている彼女の料理は美味かった。
紅茶のおかわりをもらおうと、彼女に呼びかける。

「ティナ」

ティファは、クラウドへの長年の恋心から、せっせと食事を作って持ってきている自分が馬鹿らしくなった。
自分の全てを否定したくなる衝動に駆られた。
最近、クラウドは変わった。
何も言わずにふらっといなくなった時は、心配で気が狂いそうで、大した問題ではない、と思うことに徹していた。
以前のクラウドは危うげで、確かな根がなかったように見えた。

戻ってきたクラウドは危うげなのに加えて、ぼんやりしていた。
常にぼんやりしている代わりに、全身全霊をもって何かに集中し、何かに期待していた。
常に神経を張り詰めて、その何かを感じようとしていた。

その何かは、ティナという女のようだった。
皮肉にも、自分と一文字の名前だった。
一文字違うだけで、自分はクラウドの特別なひとにはなれないのだ。

「今更私の名前間違えるの?」
ティファは笑ってみせた。
せめてクラウドの前では笑顔で。
彼もきっと辛いのだ、と自分に言い聞かせる。
「すまない、ティファ。おかわりもらえないか。」
「うん」
ティーカップを受け取り、紅茶を注ぐ。
ティーカップもポットもティファの趣味が反映されている。
自分の趣味に自信を持ち続けてきたけれど、今は全てを叩き割りたかった。
自分を卑下することで、自分を守りたかった。

クラウドにティーカップを渡す。
にっこりと微笑みながら。

この痛みと付き合っていく用意が、ティファには出来つつあった。


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スラム街は雨だった。

細い不潔な雨が石畳を濡らし、クラウドを苛立たせる。
日常的な子どもの騒ぎ声が聞こえない代わりに、別のざわめきがスラム街に漂っていた。
いつも耳にしない種類のざわめきは、クラウドを立ち止まらせた。

いつもは豊かさへの嫉妬が多分に含まれた下卑た野次や子どもの泣き声、常に破滅のにおいがする笑い声。

けれども今日は、異端への畏怖とでも言うべき声がした。
スラム街の人々にとって、異端とはすなわち豊かさであり、それはただちに攻撃の対象もしくは媚を売るためのものだったが、それとも違う感じがした。
畏怖するのと同時に、崇拝しているような、まるで神に遭遇しているかのようなざわめきだった。

果たして、ざわめきの中心にいたのは、クラウドが知っている女だった。
スラム街にはない清廉さと美しさは、周囲とは全く異なるもので、女は宙に浮き、光輝いているように見えた。
その衣服もクラウドの世界では異質だった。
女はものめずらしそうに新羅カンパニーのビルを見上げている。
ふいに、女が振り向いた。

「クラウド」
その声は、クラウドの期待を裏切ってなかった。
頭のなかに残る女の声にぴたりと符合していた。
「来ちゃったわ」
ティナの控えめな微笑みはクラウドが欲していたそのものだった。
髪が濡れて、ティナの紫がかった紺色の瞳を鮮やかに見せている。
「まさか会えるとは思っていなかったけど、来ちゃったの。」
「ありがとう」
クラウドはティナを抱きしめた。
華奢な肩、冷たい肌、柔らかい髪。

すべては手に残る記憶のままだった。
実物は、名残りにぴったりと収まっていた。






2009.01.19