いつか記憶からこぼれ落ちるとしても





窓から空を臨めることはない。
暖かく乾いた太陽の光も清潔で爽やかな風も、すっかり記憶のなかでしか親しめなくなっていたが、
ティナはこのアパルトメントでの暮らしを気に入っていた。

地味な色合いの服を着て、息をひそめるようにして生活し、スラム街に自分を染めていくのは困難なことではあったけれど、
ティナは不安や孤独に苛まれなくなった。

自分の意識さえ自分のものなのか分からずに、ふらふらとさまよっているような感覚は、スラム街に来たらぴたりと収まった。

ティナは、幸福をかみしめていた。


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目を覚まし、時計を確認すると午前5時を回ったところだった。
ティナは枕に顔をうずめ、布団にくるまって起きる覚悟を決める。
淡い金髪をひとつにまとめ、カーテンを開けた。
間近に迫る隣のアパルトメントの壁。
生活に汚されたその壁は、スラム街の住民の絶望を表しているようにも見える。

立ち並ぶ貧しい建物のすきまを縫うようにして届く朝日はまだ弱々しい。

素足に床は冷たく、ティナはキッチンに立ってお湯を沸かした。
紅茶を片手に膝を抱き、外の音に耳をすませる。

早朝のスラム街は、昼間とは別世界のように思える。
静寂に包まれ、絶望にも頽廃にも汚されることなく美しい。

バイクのエンジン音が聞こえ、タイヤがこすれる音がした。
ついで、人が降りる気配がする。

それは、ティナをどうしようもなく動揺させる。
嬉しいのに恥ずかしいような、その恥ずかしさを否定して毅然としていたくなるような、感情の洪水がティナを襲う。
毎朝のことなのに、いつまでたっても慣れない。

「ただいま」
「お帰りなさい!」

クラウドの声は甘美に響き、ティナの身体の奥底をじんわりと熱くさせる。
ティナは湧き上がる喜びのままに立ち上がった。
クラウドは無表情を装ったまま、ティナを抱きしめる。

クラウドからは夜の匂いがした。

クラウドがどんな仕事をしているのか、ティナは知らない。
話さないのは、特に問題がないからだろうと思っていた。

「お仕事どうだった?」
「別に・・・」

儀式のように毎朝繰り返される会話をし、ティナはクラウドのジャケットを受け取ろうと手を伸ばした。
「いや・・・今日はいい。それよりもティナ、これから出かけないか?」
「これから・・・?クラウドは疲れていないの?大丈夫?」
「俺は平気だ。」
クラウドは半ば強引にティナの腕を引っ張ると、バイクに乗せた。
スラム街の空気はまだ新鮮で、ティナを嬉しくさせた。
クラウドの腰に手を回し、彼の体温を感じた。
夜中仕事をしてきた彼の体温はティナより少し高く、ずっと身体を寄せていると熱くてくらくらした。
バイクが切る風は冷たくて、頬に心地よかった。


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「着いたぞ。」
クラウドの声に顔を上げると、そこはスラム街からは想像できない場所だった。
ティナは思わずクラウドに抱きつき、その反動でふたりで地面に転がった。

柔らかい草がふたりの身体を包み、野花の優しい香りが鼻をくすぐった。
小川のせせらぎが聞こえ、豊かに湖に注いでいた。

「ここを見つけたとき、一番にお前に見せたいと思った。」

このときも、いつか記憶からこぼれ落ちてしまうのだろうか。
自分の過去が頭にこびりついて消えない変わりに、この幸せはすぐに自分のなかをすり抜けてしまうような気がした。

こぼれ落ちないように、すり抜けるのが遅くなるように、ティナは、精一杯耳をすませ、目を凝らし、クラウドを抱きしめる力を強くした。

「クラウド、好き。とても好きよ。」
この気持ちは、自分自身が心の奥から感じているものだと、ティナは実感した。





2009.02.13



題名は、江國香織さんの「いつか記憶からこぼれおちるとしても」からいただきました!