れるほど近くにある心臓







夜の海は、巨大な闇と化して蠢いていた。
砂浜と海の境目は曖昧で、それはそのままふたりの生死のようだった。

一歩踏み出せば死が待っているのかと思うと、クラウドの身体は興奮で汗ばんだ。

傍らにいるティナは海風に髪をそよがせて、目を細めている。
彼女の細い金色の髪は、闇夜のなかできらきらと輝き、星の流れのように見えた。

死を前にして張りつめた瞳は、決して悲しんではいなかった。
歓喜しているわけでもなく、冷静に自分の死を受け入れようとしていた。

彼女のか細い首に手をかけると、血の温かみが伝わってきた。
華奢な首にまとわりつく自分の無骨な手は、まさに凶器だった。
これから、この温かみを断ち切るのだ。

「クラウド」

ティナは微笑んでいた。

「苦しくないようにしてね」

それがティナの最初で最後の願いであることに、彼女を殺しながら気付いた。
死への荘厳な儀式は、あっけなく終わった。
彼女の亡骸を抱き上げて、クラウドは闇のなかを、生死の淵に向かって突き進んでいった。

夜の海は母胎のように、暖かく包み込むようにして、彼を迎え入れた。
自分たちを脅かす全てのものから解放された気分になり、クラウドはほっと息をつく。

もう悩むことも迷うこともないのだと思うと、穏やかな気持ちになれた。
それこそが自分の最大の願いであり、それは、入水した今この瞬間叶ったのだ。

海上で、月影が揺らめいていた。










「お願いだ、お願いだから、切らないでくれ!」

男の切ない絶叫で目が覚めた。
異常な叫び声なのにも関わらず、あたりは静まり返っていた。
鼻につくのは強烈な消毒液の匂いであり、景色は目に染み入るような白色をしていた。

クラウドは違和感を感じる。

埃と血の匂いに塗れた戦場で、自分は、敵将に標準を絞っていた、はずだった。
心臓に汗をかいているような感覚がする極度の緊張の中、どれくらい昇級できるだろう、などと考えていた。
そして、その意識を最後に記憶が途絶えていることに気付いた。

ひどく頭が痛かった。

「クラウド、目が覚めたのね。」
見上げると金髪を束ねた看護婦が、涙を浮かべて立っていた。
「奇跡だわ。あんな爆風に巻き込まれて、かすり傷だけで済んだんだから。」

ティナと名乗る看護婦は、クラウドのいた連隊が、敵の奇襲に巻き込まれた話を淡々とした。
クラウドの他に、助かった人間は3人しかいないこと。
けれども、3人のうち1人は両足と片腕を失い、2人は生涯、ひとりでは歩けない身体になってしまったこと。
ティナの声は、男の絶叫に度々かき消された。

「あれは・・・」
クラウドは大声で彼女に聞いた。
声を出すと、身体の何処かしらが軋むように痛んだ。
ティナは、ちらっと絶叫がもれ出ているくすんだ緑のドアを見た。

「今日中に足を切らないと死んでしまう人なのよ。麻酔が切れてしまって・・・」

「・・・そうか」

クラウドは考える。

自分の心の奥深くに息づく、あれ。
あれはしこりのようになって、自分の心に根付いている。

あれについて考え始めると、動悸が激しくなり頭が熱をもったように痛み出すのでやめることにしているのだが、
少なくとも、自分は、あれと決別するために軍隊に入ったのだ。

自分の母親が血を流して倒れている姿も、自分の故郷が火に包まれてなくなる様も、これ以上思い出したくないのに。

自分は思った以上に辛抱強く、ふらつきながらも正気という一本道を歩んでいるのだ。
少しでも傾けば気を違えることが出来るのに、自分は一所懸命にその細い道を歩いていた。
正気である以上、自分は死ねない臆病者なのか、とクラウドは思った。

自分を臆病者だと考えれば考えるほど自分は生に値しない人間だと実感したが、自分の胸に刃物を突き立てる勇気が出てこないのだ。
死ぬ価値もないのか、とクラウドは自嘲する。

正気を保ち、その一方で死の願望を捨てきれずに身体が衰えるのを待つことを考えると、恐怖のあまり背筋が凍った。
その莫大な時間、精神的負担に、クラウドは恐れおののいた。

「クラウド・・・死にたいのね」

ティナはベッドに腰掛けると、クラウドの背中を抱きしめた。
彼女の手は青ざめて、死の冷たさを持っていた。
けれども、心臓は規則正しく命を刻んでいる。

「何故分かる?」

クラウドは目を瞑り、背中から聞こえるティナの脈拍を感じた。
自分の鼓動と共鳴し始め、一瞬、この女と生死を共にしているような錯覚を覚えた。

「私と同じことを考えてるな、って思ったから」

錯覚は直感だったのだ、とクラウドは思った。
きっと自分はこの女と死ぬのだろう。

冷たい手を握りしめ、意識がじょじょに一本道から転げ落ちていくのを、クラウドは感じていた。












090418
素材:Sky Ruins




収集がつかなくなったので一時撤収。
いつか書き直したい・・・。

タイトルは佐藤智加さんの小説より。