metoropolis



木一本を覆い尽くす白に似たピンクの花が人々を陶酔させていた時代をクラウドは知らない。
ひとひらひとひらは可憐なのに、それが群れると途端に凄みを増して人を圧倒する。
豪奢で不遜な花である。

ある一時しか花を咲かせないこの木の美しさを、空間に閉じ込めてしまったのが不幸の始まりだった。
蝉時雨が降る時節の暑さにも、雪の冷たさにも耐えてその花は常にあった。
絢爛さは色あせず今日もそこにある。

散ることを忘れた桜だ。









敷地内は、桜の花びらで覆われていた。
ゲートから建物まで桜並木が続き、その果てにあるのは30階建てのタワーマンションだ。
桜に囲まれたマンションは薄いピンク色に見え、マンションに灯る生活の光のせいで桜そのものも仄明るく見える。
クラウドは、くるぶしの辺りまで積もった花びらを足で払いながら歩いた。
淡いピンク色の下にのぞくのは、茶色く老いた花びらだった。
ゲート付近では白く見える積もった花びらは、マンションに近づくにつれ濃いピンクに変わっていく。
クラウドはそのグラデーションの上を柔らかい感触を踏みしめながら進む。
ふと振り返ると、ゲートの方が濃いピンクに見える。
咲き続け、散り続ける桜が人の心を惹きつけなくなって久しい。
その結果、散った花びらを掃き清める習慣もなくなった。
無駄だからだ。

エントランスに入ってしばらくすると、ガラスの自動ドア越しにティナが手を振るのが見えた。
背中の中ほどまである長い髪が濡れて肌にはりついているのが分かる。

「クラウド、待った?ごめんなさい」

人工的な果物の甘い匂いがつんと鼻についた。
彼女が使っているボディクリームの匂いだ。
何となく唾がたまる感じがして、クラウドは軽く咽喉を上下させた。

「いや、大丈夫だ」
「なら良かったわ」

ティナはクラウドの腕に手を絡ませるとエレベーターの▲ボタンを押した。
鏡に映るティナは華奢で心許ない生きものだ。
今日だって肌寒いのにキャミソールのワンピースにサンダル履きだった。
むき出しの肩に触れると骨ばったそこは血の気もなくひんやりとしていた。
ティナが甘えるように鼻を押しつけてきたので腿を撫で、耳たぶをなめた。
甘ったるい匂いに毒が混じる。

29階でエレベーターを降り、部屋に入る。
ものは少ないが、散らかっている印象を受ける部屋だった。
家電はフローリングの床に直置きされた薄型テレビと45秒でお湯が沸くのが謳い文句のポットくらい。
家具は部屋の中央に鎮座するベッドのみだった。
クラウドの足許で缶詰めが転がった。
中身がこぼれたのを見て慌てて拾うが、ティナはクラウドの耳元で「気にしないで」と呟いて彼をベッドに
引っぱり込んだ。
ティナの身体はすっかりセックスする準備が整っていたので、クラウドは舌を絡ませながら胸を弄り
ワンピースを捲り上げて挿入した。
腰を絡ませ合いながら汗だくになっていると、ティナがけもののような大きな声を上げて身体を震わせた。









いつの間に抜き取ったのか、ティナはクラウドのたばこをくゆらせていた。
先程の缶詰めに灰を落としながら、桜を見つめている。
ティナの部屋は、桜の枝がベランダまで迫っていた。
灯りに照らされて、ぼんやりと花びらも発光しているように見える。

「桜って年中咲いてるよな」

枕元に転がったソフトパッケージから一本抜き出して銜えると、ティナが顔を寄せた。
たばことたばこが触れ合うとじじっと焦げる音がして、クラウドの煙草に火がついた。

「そうね」

ティナはふーっとけむりを吐き出した。

「きれいだな」
「そう?よく見てみてよ、クラウド」

言われた通り、ベランダに出て小枝をぽきり、と折った。
若い葉が3枚ついている他は、ぼんぼりのように見える桜がか細い枝を彩っている。
枝はぼんぼりの重さにじっと耐えているような印象だった。
ぼんぼりが枝の養分を吸い尽くし、その命を圧迫しているようにさえ見えた。

「永遠の命なんて醜いだけだわ」

クラウドは頷いた。

「昔は桜も咲いてるのは春だけだったんだろ?」

「私が人として生きている頃はそうだったわ」

思わずティナの顔を見ると、複雑な微笑みを浮かべていた。
クラウドを嘲笑するような。
自分の生を憂えるような。

「何を言ってるんだ・・・」

変な女、と吐き捨てようとした瞬間、ティナの身体が消えた。
花びらが重なった濃いピンク色の海に落ちていく。
溶けていく。

声を出そうと思ったが出なかった。
ただ掠れた声で、あ・・・あ・・・と呟いているだけの自分に気付くと、クラウドは携帯電話を手にとった。
救急車を呼ばなくては。
29階から落ちたんだ、生きているはずはない。
しかしながらクラウドはボタンを押した。

「その必要はないわ」

背後から伸びた手に、携帯電話を折りたたまれた。

「ねぇ言ったでしょ?」

振り返ると、ティナが笑っていた。
携帯電話を持つ手が、彼女の手に包まれた。
身体の内から凍えていくような、冷たい手だった。

「私も桜みたいなものなのよ」

ちょっとこことここが変なの、と彼女は胸と頭を指差して、もう一度笑った。






100515


素材:歪曲実験室。