の祈り


春なのに、風には冬のなごりがあった。
肌を貫くような寒さはないけれども、冷たく、鋭さを感じさせる風だった。
ティナは目をしばたかせ、風に巻き上げられているポニーテールを押さえた。
きっちり結び、毛先はふわふわするよう巻いたのに、風のせいで乱れていないか気になった。

隣にいるクラウドは無口だ。
ティナは安心する。
自分を過剰に必要としないところも、無口なところも、自分を支配下におきたいわけではないのが分かるから。
けれども、このひとは、魔導の力など関係なしに、私のことが好きなのだ。

春の淡い色彩のなかで、くっきりとした鮮やかな色合いのものが見えた。
蝶だ、と分かったティナは、クラウドの腕を軽く引いた。
「見て、クラウド。ちょうちょだわ。」

蝶は、黄色にふちどられた青い羽根を風に遊ばせていた。
羽根を少し羽ばたかせて舞うと白い花におりたって、薄い花びらの上で蜜を吸い始めた。
「すごいきれいな色。」
ティナは屈んで、黄色と青の見事なまでの断絶や、蝶という技巧に目をこらした。

普通の人間になろうと思えば思うほど苦悩は深まり、全てを放棄してしまいたいと思うことも多かった。
しかしそれは、小さな幸せや喜びをかみ締めることでもあった。
少し肌寒く、けれども日差しは暖かくて、うっすらとかすみがかった青い空の下をクラウドと歩くと、
胸のあたりが明るく軽やかになって、意味もなくクラウドの腕をとって、ずっと一緒にいたくなる。

それは洗脳ではなく、ティナという人間が心の底から感じていることなのだ。

これを幸せと呼ぶのだと、ティナは思った。
自分は、今、全てにおいて満たされている。

クラウドは、ティナに目をこらす。

グレーがかった水色の、胸に切り返しのあるワンピースを着て、蝶に喜んでいるティナ。
まず、その無邪気な感性に感動し、次に、細い身体を抱きしめて砂色の髪を撫でたくなった。

ティナと話せば全てはうまくいくと信じることが出来たし、例えうまくいかなくても、どうにかなる、と楽観視することができた。
ティナはクラウドの安定剤であり、全ての源であることを、クラウドは実感する。

「行くぞ」
クラウドがぶっきらぼうに言うと、ティナは立ち上がった。
クラウドの憮然とした様子は、精一杯の照れ隠しなのだということを、ティナは知っている。
自然と笑みがこぼれてしまい、ティナは、ふふ、と笑った。
「なんだ?」
クラウドが少し不機嫌そうな声音で言った。
「なんでもない。」
ティナはクラウドの腕を取り、身を寄せた。

少し風は冷たいけれど、陽だまりは暖かく、花は満開に近く、蝶が飛び、鳥はさえずっている。
全てにおいて完成された春の日だった。


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ティーダは、あるカップルに目をこらしていた。
その男女とティーダは知り合いだったが、あえて声はかけない。

女は黄色と青の蝶を指差して男に何事か嬉しそうに喋っている。
男は無関心な風を装っているが、実はそうでないことは、男の仕草や目線でよく分かっていた。
ふたりが絶大な信頼を寄せ合い、愛し合っていることは、明白だった。

女が笑う。
男は柔和な表情で、女の肩を抱く。
男が女の耳元に顔を寄せると、女は恥ずかしそうに俯いた。
そして、また花開くような笑顔を男に見せる。

女がベンチに座ると、男は女に何か言い残し、去っていった。

ティーダはため息をつく。
心が暗幕で覆われて、気持ち悪さに押し潰されそうだった。

ティーダにとって女の笑顔は至上の喜びであり、天上のもののように美しく見えた。
ティーダは女に恋をしていた。
儚げで可憐な容貌が良いと思い、自らの過去に押しつぶされそうになりながらも、前向きに生きようとする姿を良いと思った。
前向きなのは自分の唯一のとりえだったから、女が過去を捨てる手伝いを傍で出来たら、とティーダはよく夢想した。

女はティーダの友人であったが、同時に男もティーダの友であった。
男の冷静さや女好きのする容貌はティーダの憧れ。
けれども、そこに漂う暗さや、女と同じ匂いのする過去が、ふたりを阻むものと思っていた。
闇を深くするのは意味のないことであり、闇には必ず光がささなければならない、とティーダは固く信じていた。
しかし、ふたりの友人は連れ立って、今そこにいた。

激しく男を憎む気持ちをティーダは飲み込み、女への思慕を封印しようとした。

けれども女は、今、ひとりでベンチに座っている。

ティーダは駆け出した。


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「ティナ!」
ティーダが大声で呼びかけると、ティナは目を見開いて彼を見た。

「ティーダ、久しぶり。」
ティナは微笑んでくれたけれども、その笑顔には壁があった。
友人であるティーダに心は開いているけれども、最も深い扉は閉ざされている。

自分は、今、ティナがクラウドに向けていたような花開く笑顔を見せているのだろうか。

「ここで何してんスか?」
「うん、ちょっとね。」
ティナは、恥ずかしそうに笑ったけれども、その笑顔は満開だった。

ティーダは悲しくなった。

「あ、花びら。」
ティナの砂色の髪に、薄桃色の花びらが乗っていた。
ティーダは花びらをつまんだ。
その拍子に触れたティナの髪の柔らかさ、状況を伺う深い青の瞳に、ティーダは激しく揺らめいた。
海の青と空の青を内包しているその瞳にいつも自分を映せたら。
柔らかいティナの身体を抱いて、朝を迎えることが出来たら。

「ありがとう。」

ティナは微笑んだ。

ここで自分の思いを伝えたら、ティナは嬉しそうに笑うだろうか。
それとも困惑するだろうか。
あるいは、傷ついた顔をするかも知れない。
クラウドのことをまず想い、次にティーダのことを想って。
どちらにしろ、ティナはまた、人を傷つけなくてはならないのだ。

ティナの表情がぐるぐると渦巻いて、心の深淵に消えていった。

「俺、そろそろ行くわ。」

好きです。
と言わなかった自分を褒めて、ティーダは静かに腰を上げた。

好きです。
本当に好きでした。

心は大切なものを無くした後のように痛んでいた。

あの髪の柔らかさを、俺は忘れないだろう。

風がそよいで、また花びらが散った。






2009.01.03




私の頭の中はもはや春です。