忘れえぬ人
白い肢体をなげ出して、ティナはシーツの波をたゆたう。
彼女の肌に咎人の証のように残る黒々とした痣が痛々しい。
それを癒やすように、クラウドはそこに口づけ、舌を這わせた。
痣は消えない。
ティナは優雅に泳ぐ人魚のように、身体をくねらせた。
細い首はすぐに絞め殺せそうだ、とクラウドは考える。
指先が白くなるほど指を食い込ませると、ティナはくちびるをかみしめ、手で口をふさいだ。
ティナの顔が赤くなり、歪む。
クラウドは、力を緩めた。
また失敗だ。
美しいひとが死の瞬間に醜く変貌し、冷たい亡骸になることに耐えられない。
「ね、クラウド早くして」
ティナはクラウドの耳に口を寄せて、優しい声音でそっと囁いた。
穏やかに、残酷な命令を突きつける彼女は、初めて見たときと何も変わっていない。
死を懇願する碧眼は、再会したときと同じ色合いだ。
淡い金髪がふわふわと、クラウドの頬をくすぐる。
「クラウドが私を忘れないうちに」
ティナはクラウドの背中に頬を寄せ、そっと彼の肩甲骨をなぞった。
「忘れたことなんてない」
クラウドは力なく言った。
日傘に半ば隠れた、美しい姿の女貴族。
悲しみを背負って馬車に乗り込む瞬間は、何度も思い出したせいで子どものときからの手癖のように
すっかりクラウドの一部分を成している。
「でも私は、クラウドに忘れられるのが怖い」
本当に怖いの、とティナは震える。
忘れられるって、クラウドのなかからいなくなってしまうということでしょ。
「分かった」
やっぱり最後までティナには敵わない、とクラウドは苦笑した。
ティナの終わりを見なくて済むように目を瞑り、渾身の力をこめてその首を絞めた。
◆
傘からのぞく白い顔を、クラウドは忘れたことがなかった。
葉の陰が日傘にまだらに模様を作り、陽光を疎んじるように目は伏せられて長いまつ毛がかすかに
震えている。
整った鼻梁と小さなくちびるが貴族的だ。
淡い金髪が小さな顔を縁どって、女に気品を添えている。
涼やかな白色の日傘と、重苦しいロイヤルブルーのドレスがアンバランスな印象だ。
クラウドに気付いたのか、女は顔を上げた。
慌てて視線を逸らそうとするが、意志とは裏腹にクラウドの目は女を捉えたままだった。
彼女もまた、クラウドをじっと見つめている。
そうして女は悲しげに微笑むと、馬車に乗り込んで行った。
その女はクラウドの思った通り―貴族の出であり、その日は故郷を去る日であったことを、彼は後から知った。
彼女の名前は、ティナ・ブランフォードだということも、同時に知った。
知ったところで再び会うこともないだろう、とクラウドは悲しみが濃い影を落とした、美しいかんばせの思い出を
心の内にそっと眠らせた。
◆
蒸した空気がぬめるようにクラウドの肌にまとわりつく。
加えて太陽の光はじりじりと、暴虐に地を焼いている。
クラウドの仕事は立ち続けることだった。
王宮の門番と言えば聞こえはいいだろうか。
快晴の空を見上げると、影絵のようにあの日傘の女が蘇る。
あの日も暑かった。なのに、あの女は見るからに暑そうな服を着て・・・
夏が来る度に、その思い出は陽炎のようにゆらゆらと立ちのぼってクラウドの心を切なくせめ立てた。
女の美しい顔は色あせることなく、そのまま胸の内にあった。
日傘に半ば隠れた女の姿を想起していると、馬車が門の前で止まった。
四頭立ての、装飾が施され、その正面には貴族のものらしい紋章が掘り込まれた立派な馬車だった。
馬の毛艶もよく、堂々としている。
クラウドは馬車に近づいた。
王宮であるがために、馬車を検分しなければならない。
やんごとなき世界を少し暴けるのは、一寸した楽しみだった。
「中を」
御者も心得ていて、素早く扉を開けた。
乗っていた女が驚いた顔をしたのが分かった。
数年前と何ら変わりのない、貴族の女がそこにいた。
女が紫がかった碧眼だということに、クラウドは初めて気付いた。
「あ・・・」
ティナが声を上げた。
少し掠れている。
あのときと同じように、クラウドの目は女を捉えて離さない。
◆
馬車の扉は地獄への門だったのだ、とクラウドは思う。
それとも快楽に溺れた甘美な日々を天国だと形容するべきなのか。
でも、忘れたことなんてなかった
いつまでも忘れられない人だ、とクラウドは熱を失い始めているティナの頬を撫でた。
100227