優しい記憶
冬の訪れを感じさせる晩秋の早朝だった。
むき出しの肩が冷える感覚で、レインは目を覚ました。
隣で眠るラグナを慮り、少しだけ毛布を引く。
しかし、自分の隣で眠っていた男は、出かける準備をしていた。
薄闇のなかで、束ねられた長髪と銀のリングのピアスがちらちらと揺れている。
こんな早朝に、出て行く準備をするなんて・・・。
自分が今まで考えることを怠っていたけれど、現実に起こると100%予測されたことが、今目の前で起こっているのだ、とレインは認識した。
ラグナが出て行くことを考える辛さには耐えらなかった。
肥大した悲しみに心がばらばらになり、心臓の肉がちりぢりになっていくような感覚が、自分の頭のなかではなく、現実に起こっていた。
ちりぢりになった肉は、風に吹かれ水に流されて、やがて悲しみは優しい記憶となって自分の肉体の隅で生き続ける。
けれど、優しい記憶になるまでの辛さに、自分は耐えられるのだろうか。
レインは寝返りをうつふりをして、男の方を向いた。
「行くのね」
「ごめん」
「謝るくらいなら、行かないで」
ラグナが悲愴な表情を浮かべたので、レインは俯いた。
今まで我慢してこられたのに、どうして今は我慢できないんだろう。
ラグナがいつかこの村を去ることは分かっていたのに。
いつも明るいラグナの悲しみに沈んだ瞳は、静かにレインの心を穿つ。
「レイン、顔を上げてくれ」
ラグナの大きな掌が、そっとレインの頬を包み込んだ。
「俺がビッグなジャーナリストになることだけは、約束できるから」
レインは震えるくちびるをかみ締めて頷いた。
また一緒に暮らそう、と言わないこのひとの優しいところが好きだったのだと、レインは思った。
「ありがとう、レイン」
ラグナはレインの額に口付けると、静かにドアを閉めた。
階段を転げ落ちる大げさな音が聞こえた後、石畳の道を踏む微かな靴音が響いてきた。
「また転んだのね、最後までおっちょこちょいな人」
レインは大げさに仰け反るラグナの姿を思い出して笑った。
そして、思い出すことは出来ても、簡単には会えなくなってしまったラグナの広い背中を反芻して、少し泣いた。
自分に出来るのは、ラグナを忘れないことだけだ。
そして、ラグナが心配しないように元気にエルオーネと生きていくこと。
レインは起き上がって伸びをすると、窓を開けた。
素足で踏む床は冷たい。
冷たい風が鋭くレインの頬をなぶっていく。
冬の訪れを予感させる風だった。
ウィンヒルが雪に閉ざされる前に、ラグナを送り出すことが出来てよかった、とレインは思った。
何となく、下腹部が痛む感じがした。
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船での生活は、日付感覚をどんどん削ぎ落とし、衣食住に根ざした人間本来の姿をシンプルに浮かび上がらせる。
エルオーネは、その感じが嫌いではなかった。
煩雑な都市生活には馴染めなかったし、自分の能力が人間の生活を崩壊させるものだと分かっていたから、
日付というものがすっと自分のなかから消えていくのは、自分が人々に害を及ぼさずに済んだ感じがして気分が良かった。
エルオーネは、目を覚ました。
自分のなかに僅かに残った感覚が、今日という日の大切さをじわじわと思い出させる。
船内はまだ暗かった。
暗闇からは健やかな寝息が聞こえ、そこには確かにエルオーネが慈しんでいる子どもたちが寝ているのだと知らせてくれる。
この子たちとは、自分が納得する形で決別したい。
何も分からないまま引き離された、あの子のときの二の舞にはならない。
この船に住む子どもたちとの別れには、自分の意志を貫くことを決意していた。
エルオーネの意志が尊重されたことは、ウィンヒルで過ごした幼少時代を除けば一度もない。
自分の好きな料理を作ってくれたレインや、いつもエルオーネが望む遊びにつきあってくれたラグナおじちゃんの笑顔が頭に浮かぶ。
ささやかなわがままを叶えてくれたふたりの面影は、いつも唐突に蘇る。
手探りで甲板に昇ると、朝日が8月23日の到来を知らせていた。
ぽっかりと濃いオレンジ色の太陽が、薄い雲のなかで丸々とした姿を晒している。
あの少年の17回目の誕生日は、幸運なことに晴れるようだった。
いつも自分にすがって泣いていた少年はどんな風に育ったのだろう、とエルオーネは想像する。
レインは美人だったし、ラグナおじちゃんは・・・おっちょこちょいだったけど、顔は整っていたものね。
きっとふたりの子供である少年も、万人を魅了するような美しさをもつ青年に育ったに違いない。
エルオーネは、写真すら遺せなかった一組の若夫婦の残像を追いかける。
ウィンヒルの静謐を破ったラグナの明るい声、ラグナを叱咤する、それでいて嬉しそうなレインの声は
記憶という曖昧なものに変わった今でも、鮮やかにエルオーネのなかで蘇り、ウィンヒルでの優しい日々を
そっと思い出させる。
海の色が底知れない深さを持つ青ではなく、じょじょに生命を包み込むような穏やかな青に変わってきた。
朝靄が晴れ、前方を見るとバラムのくっきりとした緑の島が波間にどっしりと構えている。
「お誕生日おめでとう、スコール」
10数年ぶりに再会するかつての少年には、まずそう声をかけよう、とエルオーネは決めた。
090823