の断片
じんわりと冷たさが身体に侵食してくる心地がして目を覚ますと、私は水に浸かっていた。
私にとって幸福そのものである湯船は、すっかり冷め切って、今は意地悪く私の身体を冷やしている。

窓から差し込む陽光は、お風呂に入ったときは朝らしい清らかさに満ち溢れていたが、今はすっかり昼の倦怠に穢されていた。


私は、湯船に浮かんでいる本を発見し、きゃっと声を上げた。
本を読みながら、うつらうつらしていた自分を思い出す。

ハードカバーの本は、拾い上げるとたっぷりと水分を含んでいた。
慌ててタオルをあてるけれど、薄くて繊細だった紙は肥大化し、波打っていた。

私は悲しくなる。

猫足のバスタブは、その見た目でしか私を幸せにしてくれない。

仕方なくシャワーを浴びて、浴室から出て、すっかり不幸せな姿になってしまった本をどうしようか、と思案する。
私の無聊を慰めるために犠牲になった本を、どう弔うべきか。




私は、お風呂のなかでひとりなのがとても苦手だった。
湯船に浸かるのはとても好きだけれど、誰もいない立方体の冷たいタイルで出来た空間で、無防備な姿でいることに、とても抵抗を感じる。


ひとりで入るのがいやなくせに、一緒に入ろうとも誘えずもじもじしている私に、クラウドはよくため息をついたものだった。
そして、ぼそりと「入るぞ」と言うと、タオルなんかを掴んで浴室に向かった。
私は彼の後を追い、幸福な湯船にクラウドと浸かる。

今はクラウドの代わりに本をお供にして、お風呂に入る。


黄金の足をもつ白いバスタブのなかで、クラウドと私は色んな話をした。


本や映画の話題が一番多く、いっぱしの批評家になったつもりであれこれと批評し合う。
クラウドと私の嗜好はすっかり逆で、そのために私はクラウドに随分と貶された。
論理的に、矛盾の隙なく批評する彼には腹が立つ前に、反論する気が失せた。

次いで多いのはやっぱり友人の噂話だった。
なんであいつはあんなに空気が読めないんだろう、とか、あいつは明るすぎてイヤだ、とか、
或いは、根暗と認定された友人の名前を出し、あいつの暗さにはついていけない、と盛大にため息をついた。

その後で、俺に似てるからきっとイヤなんだろうな、と呟いた彼に、思わず噴出したこともあった。



身体が冷えたせいか、ダルさを感じ、私はそのままベッドに横になった。

クラウドの掌を思い出す。


大きくて、私の額を包み込んでくれた。
すぐ体調を崩す私を常に気遣い、世間の母親がするように、掌で私の具合を推し量ろうとしてくれた。
それは子供のままごとのようでもあったが、母親の記憶が殆どない私は、とても幸せだった。


大きくて、柔らかくて、少し冷たいクラウドの掌は、私をしっかりと受け止めてくれた。


開け放した窓に吹き込む風の匂いに誘われて外を見ると、新緑がちょこちょこ芽吹いていた。
もうすっかり成長し、濃厚な緑を誇る葉っぱのなかで、それは清楚な春の名残りのように見えた。

私の人間離れしていると忌み嫌われた緑色の髪をさし、春っぽくていい、と言ってくれたのはクラウドだった。
深い紫の瞳もそうだった。

私の構成要素を、クラウドは好きだと言った。
私自身ですら、気持ち悪くて鏡に映る自分に吐き気がするほど嫌いだったのに。

いちいち傷つく心に疲れて、肉体の死を決意した私をクラウドは救い出し、こころをそっと撫でてくれた。

私はクラウドに生かされている。


今、彼は何をしているのだろう。
私の額に確かな痕跡を残し、彼は私の前から姿を消した。
あの大きな刀を背負って悲しい過去を胸に秘めて、今はどこにいるのか。

私のことは覚えてくれているかな。


私の声が届きますように、なんて贅沢は言わない。

不安を抱えずに、穏やかに暮らしていて下さい。
病まずに健やかに、何はなくても明るい生活を送っていて下さい。

そして、私自身が、心のなかに残るクラウドの思い出を、決して忘れませんように。
彼と過ごした時間の全てを、いつでも反芻できますように。


クラウドが褒めてくれた緑色の髪の毛を痛ませないように、トリートメントしてきちんと乾かさなくちゃ。
私は、ベッドから起き上がった。





090622




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